Saturday, June 7, 2014

My remarks about scuff project / REIKO TOTSUKA_AFTER REPORT

VISUAL MESSENGERS in GINZA  ART CROSS PROJECT 2014 SPRING

REIKO TOTSUKA

http://www.artcross.info/artists/REIKOTOTSUKA.html
http://artcrossproject.blogspot.jp/search/label/REIKO%20TOTSUKA

ART CROSS PROEJCT 2014 SPRING に参加した戸塚怜子さんが、自身のプロジェクトの追加リポートを提出してくれました。






















My remarks about scuff project

「scuff project」の成り立ちや構造を整理し理解するための覚え書きのようなもの

=序=
今回の作品は、自分にとって新しい試みが多過ぎること、制作にあたっていくつものプロセスを踏むことから、未だに自分のなかでその構造が整理しきれていない部分がありました。それに加え、いままでそこまで自分の作品について厳密に言葉にして分析することは無かったため、今回この作品を契機にそれらの作業を試みたいと考えました。それがこの覚え書きを書こうと思いたった第一の理由です。
そして、もうひとつの意図のようなものを挙げるならば。
元々この作品の意味を1から100まで観る人に理解してもらう必要はないかと思っていました。けれど、このように「1から100までの覚え書き」を見てもらうことそれ自体を、作品における新たな試みとして、作品そのものの外側で実験的に行ってみたいという思いがあります。
説明しようとはしているものの、基本的には私による私自身のための独りごちそのままの文章なため、時々断片的にはさまれる言葉もいくつかあり、きっと読みにくい部分がたくさんあると思います。
これらの断片から、作品が組み上がる時間の一断面を感じてもらえれば幸いです。







=1 フォトブックカバーが生まれたきっかけ=

今から2年前の2012 年の春、私の地元である静岡県静岡市のギャラリーにて、同じ大学の
友人3人と共にグループ写真展を行いました。そのときの出来事がこのプロジェクトの核となる「フォトブックカバー」を思いつくきっかけとなりました。

その展示は会期を半分にわけ、2名ずつに分かれて展示をするという構成となる予定でした。しかし、会期前半、私ともう1名の展示が終わろうとしていたときの事です。ふとギャラリーのオーナーの方が「このあと二階部分を使って追加で展示をしてみない?」と提案してきたのです。
そのギャラリーは二階建ての民家を改装したもので、一階がギャラリー空間、二階は貸し暗室がある以外は民家の内装をそのまま残した空間で、家具がそのままになっていたり荷物が置かれていたり、物置に近いような状態となっていました。普段は人が頻繁に入ることもなく、よもや展示などには使われない場所です。追加で展示することなど全く考えていなかったので、「さてどうしよう」と悩みました。一階の作品をそのまま引き継ぐのも何かつまらないし、そもそも展示していた作品は二階の空間には合わないし、新しい作品を作ったり出力する環境や時間もないし…。
そのとき、今では何がきっかけだったのかは全く思い出せないのですが、ふと「写真をブックカバーにしてみたらどうだろう」と思ったのです。

古本屋で100 円弱の本を適当に買ってきて、静岡で撮ったスナップ写真を家庭用のプリンターでコピー用紙に印刷したものをくるんで本棚に並べただけ。ただそれだけだったのですが、何か「面白い」と感じる要素がありました。和室という、いわゆる「作品を展示する為に用意された空間」でない場所に展示するという条件が先にあったことで、その空間に触発されるようにあるいは順応するようにして、普段制作する平面の写真作品とはちがうものが生まれたのです。写真が平面とは異なる形態になること。「作品」であったり「額に入れられて大切に飾られるもの、観られるもの」ではなく、カバーという「使われるもの」「ものを包み保護するもの」もっと言えば「表面がすり減るもの」になりうるということ。言葉にすればそのような「写真作品らしさ」とは相反するような要素が詰まったところにひかれ、おもしろがっていたのだと思います。

そうして生まれた即興の「フォトブックカバー」のイメージは、展示が終了してから改めて作品として発展することはありませんでした。けれど「気になるもの」「何かの可能性を秘めているもの」として、ずっと頭の片隅に残り続けていました。






























はざまの話1



写真を撮っているのですが、普段使っているのは殆どがデジタルカメラです。
デジタルカメラで撮った写真は、元のデータさえあればほぼ完璧に同じ状態のものを無限に複製することが出来てしまいます。無限の複製性。どんどん「軽く」なっていく写真プリントの存在。








=2 ACP、銀座との出会い=


静岡での展示から2年後の2014 年の冬、東京に住み作品制作をしていた私の元に銀座での作品展企画の話が舞い込んできました。それが「アートクロスプロジェクト」です。このプロジェクトは毎年定期的に行われているアート企画で、東京の銀座という街をテーマに、参加アーティストが能動的に動いて街の中に展示場所(お店や路上など)を見つけ、場や人と関わりながら作品を制作したり展示を作り上げて行くというものでした。

銀座という街に自分がどうコミットしてゆこうか。街の内側にチューニングするような感覚で、1月末、良く晴れた日の昼下がりに街を歩いてみました。そうして感じた断片的なイメージを言葉にしたものが下のものです。


銀座:
Ginza:
何かが隠れている(半透明のガラス張りの扉の向こうに)
あつめられた街 うつくしさがきれいに整頓されて並べられた
古いものと新しいものの断面が常に並んで見えている
モノクロームと光沢の街、鮮やかな色は息を潜めている
人が皆せわしなく、何かに向け一生懸命働いている
誰かと誰かが出会いそうで出会わない気がしてしまう
(ひとの)「すみ分け」のようなものが自然と出来てしまう
つねに流れ入るものがあり、流れ出るものがある


賑やかだが密やかで、ひとの記憶や物語が膨大に蓄積されているような予感の漂う場所


「見えないけどある」という「予感」に近い何かの存在、実体のないものを可視化したい、というのは私が作品を作るにあたって考えているテーマのひとつです。
今回の企画においても自然とそのような意識が出てきました。
このにぎやかだけれどもひそやかな街の中に普段は見えないけれどあるであろう、人や街の記憶や時間の堆積(=物語)を、自分の専門である写真をつかって可視化できないだろうか。そう考えたとき、ふと思い出されたのが2 年前に制作したフォトブックカバーでした。












はざまの話2


いまの世の中には、ありとあらゆる写真があふれています。
そのひとつして、電車に足を踏み入れ、つり革に捕まってふと周囲に目をやると視界に飛び込んでくるのは、沢山の車内広告の写真です。膨大な数の写真。
つるつるの光沢面。ビビッドな色やポップなデザイン。見る人を引きつけるイメージ。
一定の短いスパンを経てどんどん入れ替わって行くそれらが、ぼろぼろになるまでその場にとどまっている事は決してありません。
それらはすり減る間もない。いつも新しく有り続ける。
一方で、私たちには見えないところで日々膨大な数の写真イメージは捨てられ、どこかへと消えてゆきます。
イメージはすり減らない。何も堆積しない。
摩耗するために存在していない。けれど、ものとして日々消耗されてゆく。
そのような事を頭に巡らせながら過ごしているうちに、「すり減ってゆくものに美しさが見いだされればいいのに」という言葉が浮かんでいました。













=3 scuff project の過程=


フォトブックカバーを実際に人に渡して使ってもらうと、時間が経つにつれてその表面にはしわや傷、しみといった使用感が出てきます。それらが、じぶんが目指す「可視化」のひとつのかたちになりうるのではないかと感じたのです。そうして組み上がっていった作品の制作プロセスは以下のようなものでした。


<銀座の街を日々歩き回り、スナップ的な方法で写真を撮る>
「ブックカバーにするための素材の収集」という目的はもちろんありますが、それ以前に、撮る事によって自分自身が銀座の街を知ること。完全には理解できなくても、銀座という街へのイマジネーションを膨らませると。が行為の意味として含まれているように感じます。


























<紙に出力し、ブックカバーの形態にする>
<本は文庫本で統一し、中身はエッセイや小説など。互いの内容が直接的もしくは間接的にリンクするようにセットする>
・ 本のサイズがなぜ文庫本なのでしょうか。
というと、正直始めはその事についてあまり意識的ではありませんでした(無責任な言い方をすれば、まさに「なんとなく」でした)。制作の過程において、便宜上の問題で自然とそうなっていったという側面はあります。ただ、雑誌などの大きなサイズの本やハードカバーの本等をフォトブックカバーで包むことを考えたとき、なぜかあまりしっくりこなかったのです。

なぜそのように感じるのか、この点は感覚的な部分が多いのかもしれなくまだ整理しきれていない部分です。
・なぜ既製の本なのでしょうか。
協力してもらう方に、持続的に使ってもらうために、「既にある文章を読んでもらう」ということが便宜的に必要でした。しかし「使ってもらうため」ならば、もっと他の方法もあるのではと思ったりも。今回に関して言えば、この方法を採用しただけ。という感じなのかもしれません。ただ、「既製の本(=他人のつくりだしたもの)と自分のイメージをリンクさせることの面白さ」というのは便宜的な部分と異なって私を刺激する魅力のひとつでした。

そのために既製の本を使ったという理由もあります。





<銀座で日々を営む人たちに声を掛け、何冊かの中から好きなものを選んでもらう>
<作品の趣旨を簡単に話し本を読んでもらう(=カバーを使う)ようにお願いする>
ふだん銀座には全く縁がないので、当然知り合いなどもおらず、ほとんど飛びこみによるお願いに頼らざるをえませんでした。そのため、完全なる初対面のひととのやり取りでした。正直怪訝な顔をされ断られることは一度や二度ではなかったのですが(それが自然だと思います)、中にはこの試み自体をおもしろがってくださる方もいらっしゃったのが救いになりました。
同時に、続けて行くにつれてどんどん自分が作品としてあらゆる要素をコントロールできなくなっていく感覚も生まれてきて、このような種類の制作(他者を介在させたり、行為を作品の内側に含む事?)を行うことの難しさを感じ始めた頃でもありました。




<一定の期間後、再びその人の元を訪れカバーを返してもらう>
<同時に本を持ったその人自身の手元の写真を撮らせてもらう>
・ 返してもらう際になぜ写真を撮るのでしょうか。
この作品は、さまざまな人を介在させることが大きな要素にはなっていますが、作品のサブタイトル(on the other time and memories:something you already know)でも仄めかしているように、ひとりひとりが強い「固有の個人」のイメージであらわれることは避けたいと思っていました。むしろ、この作品を通して残したいの「誰かの」「誰にでもなりうる」「名前が感じられないような」痕跡です。だから、協力者の顔写真を撮ろうとは考えませんでした。ただし、手元の写真は撮らせてもらうことにしました。それが作品にとってどのように作用してくるかはわからなかったのですが、残すことによって何か見えてくるものがあるかもしれないと感じたからです。



















<カバーの表面についた、使用者の手擦れ(しみ、きず、しわなど)を、何らかの形で可視
化したものを作品として再構築する>
この段階については、さまざまな方法を考えました。
当初は使用してもらったカバーを広げ、平面化して構築する方法を考えていたのですが、「フォトブックカバーという形態を取り払ってしまうことにより、形態の面白さが伝わらなくなってしまう」「目にはっきりと見て取れるほどのscuff がプロジェクト中の短期間では堆積されず、本来の目的であった、それらを目に見えるかたちにする(可視化する)ことが難しくなるのでは…」などの問題が生じてきて、さてどうしよう…としばらく考えこんでいました。そのなかで、ふと思い出したのが小学校の図工の授業で一度使ったきりのカーボン紙のことでした。
そうして最終的に試みたのはとてもシンプルな工程です。
カバーを裏返して広げ下にカーボン紙と薄紙を敷き、上から竹串などの先が細いものでしわやシミの線や形をなぞっていくのです。そうすることによって、ぱっと見にはわからない微かなそれらの手擦れ=scuff が紙上に浮き上がってきました。
銀座でひとり写真を撮ることから始まり、まさか最終的な段階でドローイングに近いことをするとは予想していなかったので、作業していてとても不思議な気持ちになりました。























はざまの話3


はじめに静岡の展示で制作したときに感じた「面白さ」とは別に感じた、フォトブックカバーの魅力のようなもの。

ブックカバーにすることによって、一枚の写真は①表側の見返し②オモテ表紙③背④ウラ表紙⑤裏側の見返し
の5つの面に分割されます。
そのためか、印刷した写真を本に合わせてカバーにする作業は、写真をトリミングしているのとどこか似た感覚を思い出させます。事実、その作業は一枚の写真をいくつもの画に分解するトリミングに他なりません。
例えばこちらのフォトブックカバー。




元の写真


















続いて、分割したときの一面ずつの画像


























分割することによって、元の写真では見えてこなかった細かい部分が見えてきます。
また、文庫本の形態上、オモテ表紙を上にして見ているときには背表紙やウラ表紙などの他の面は目にする事ができません。
そうしてオモテを見て、ふとひっくり返してウラを見た時に、オモテのものと相対的な被写体が映っていたり、一枚の平面として見る写真とはまた違った新たな見方が生まれることもあるのです。
印刷した写真のインクが乾くのを待ち、本に折り込む作業を何度も行うそのたびに小さな発見や喜びがあるのは、私にとってとても面白い体験といえます。







=4 cafe 634 での展示=


そうして制作された作品を、東銀座の「cafe634」にて4月の下旬から5月の上旬に掛けて展示させてもらうことになりました。


<cafe634 について>
cafe634 さんは、東銀座エリア歌舞伎座すぐ近くの静かな路地裏にある、白壁の四角い箱のような外見が特徴のカフェレストランです。銀座の中心エリアからは少し離れているため、周辺に大きなお店などは無くオフィスや小さな商店、隠れ家の様なレストランやビストロが軒を連ねています。建物の前に小さな鉢植えがいくつも並んでいたり、道端で猫が眠っているようなどこか下町に近い雰囲気が漂う場所なので、いわゆる「銀座」のイメージで訪れると意外な印象があるかもしれません。
普段は静かですが、お昼時になると近所の人たちがお昼のランチを求めて一斉に外に出てくるため、あたりは途端ににぎやかになります。cafe634 に足を運ぶお客さんもまた、近所のオフィスで働く方がとても多い様子です。平日は財布を片手に訪れ数人でテーブルを囲みながらおしゃべりに花を咲かせていたり、カウンターでお茶を飲みながら真剣に仕事の打ち合わせをしている方の姿を良く見かけます。
お店は一階と二階に分かれており、一階はカウンター席が数席あるのみで隠れ家のような雰囲気なのですが、二階に上がると雰囲気が変わります。






















写真にある通り、テーブルがいくつも並んだ広い空間でコンクリートの床と白い壁というシンプルな空間で、昼間には奥の壁の大きな窓から外の光が差し込んできます。そのような造りのせいかとても開放的で明るいながらも穏やかな雰囲気が漂っていて、ついつい長居をしてしまいたくなるようなゆったりとした時間が流れています。そのせいか、一人でふらっと訪れて、本を読みながらのんびり過ごしているお客さんも多く目にします。もし近所にこんなお店があったら、何度も通いたくなってしまうはず。近所の方も多いですが、休日は遠方から来たような家族連れや友達連れのグループのお客さんも多くいらっしゃいます。老若男女問わず、幅広い方に愛されているお店なのだと思います。
料理は和・洋の混ざった、お家ごはんのようなメニューが中心です。とてもさりげないお料理なのですが、お店の方が正しいと思える良い食材を使ってとても丁寧に作られているため、ひとつひとつのお料理が染み渡るような美味しさです。デザートや飲み物も種類が豊富で、特にコーヒーは毎日異なる種類の豆を使っていたり、丁寧にハンドドリップで淹れられていてとても美味しいです。








<展示について、今後の展開>
展示場所としてとても魅力的な空間であったこと、また銀座の近所の方が多く利用し、銀座という街の日常にとけ込むような場所であったこと。それらを考えて是非にとお願いし、展示させてもらうこととなりました。
店内には、制作したブックカバー(実際に使用してもらったものと、新品のもの)や銀座の写真、協力者の方のハンドポートレイト写真、そして最後に制作したscuff のドローイングを展示しました。





































展示の方向としては、
・ お店の雰囲気をこわさないこと
・ さりげないこと(作品の配置の仕方等)
の2点が重要でした。
作品と空間の雰囲気がマッチしていると言っていただけることが多かった(その点は自分自身も感じました)ので、空間選びは間違っていなかったのかなという印象です。ブックカバーは自由に手にとってもらえるようにしたため、会期中はお客様が手に取って読んでくださる事も多かったです(本棚にあったものなどは、作品だと気づかない人もいたはず…)。その様子を見ていてとても不思議な気持ちになりました。作品が自分の手を離れて
誰かの手に渡っている様子はどこか心地よいものがありました。
会期中もブックカバーを渡したり回収することがあったため、後半は若干数展示作品数が増えるなど、会期中もゆるやかに制作が進む事がありました。これも自分にとっては初めての試みだったため、とても興味深い体験となりました。また、私的な事でいえば、展示を観に来てくださった方達とゆっくりお茶やご飯を楽しみながらお話をする時間が出来た事がとても豊かな体験となりました。これも、カフェという場所を使わせてもらったからこその事だと思います。
ただ、展示を通して作品の中身や方向性について別の視点が出てきたり、展示の方法について反省点も多々ありました。プロジェクトを完全に概観する前に展示をはじめたことも一因としてあると思います。
今後の展開も考えているところなので、これからはまた制作プロセスが変わったり、全く違った展示方法や形態になっていく予感がしています。
5月から地元である静岡に長期滞在しての制作に入るため、静岡での展開も考えているところです。
作品名に「project」という言葉が入っている通り、コンセプトや方法論は自分の中である程度明確に決められてはいますが作品自体が自分の手(コントロール)を離れてどんどん姿を変えていく印象がとても強く、自分でもまだ地図の全貌が見えきっていないように感じています(本来は会期中にプロジェクトのアーカイブを展示する予定でしたが中止したのは、それらが原因としてあります)。展示が終了してからしばらくの時間がたち、少し見えて来たのかなという印象はあるので、特性をどのように生かしながらひとつの流れを作って行くかということを、以後はより意識しながら進めてゆきたいと思っているところです。